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ではどうしたらよいのか。実はそれはこれまでに述べてきたこと、そのままを実行すればよい。それだけなのだ。
自文化優位の考えを一時棚上げする
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だがそのためには、ムラスタン人たちが自文化をいったん棚上げして保留することが必要だ。
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つまり「自分(たち)の文化だけが、全ての価値判断の基準になる」という前提を一時お預けにしなければならない。
しばしばそれは、ムラスタン人が意識もせずに無意識下で信じている価値観なので、この点は自覚的に注意しなければならない。
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そしてその上でワカスタン人たちに対しては、次のように接する。上図の通りだ。
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その意欲を評価し、独自の価値観を持つことを許容し、かつその発言を寧ろ奨励する。
その意図と目的も、順序立てて丁寧に説明する、等々。
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何しろワカスタン人たちは、他人の異論や異説に対しても平静に傾聴できるのだから、ちゃんと説明すれば問題はないはずである。
「甘やかしてはいけない」のか
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問題なのは、やはりムラスタン人の方なのだ。
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ここまで読んで、内心では
「あんな『わがまま』で『甘ったれ』の若い連中に対して、どうしてそこまで『いい顔』をして『甘やかして』やらなければならないのか」
と憤慨する方もいらっしゃるかもしれない。
「棚上げ」できない人たち
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だが結局その憤慨は、前述したムラスタン人側の無意識の価値観を捨てきれていないことの表れである。
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即ち「自分(たち)の文化だけが、全ての価値判断の基準になる」と言う前提だ。
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もちろん、或る特定の価値観を捨てる捨てないは、個人の自由だからお任せする。
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だが前述のような憤慨を感じていらっしゃる間は、ワカスタン人との共存は不可能だというご自覚は、意識していただきたいと思う。
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「まったく、今時の若い連中ときたら」という憤慨と慨嘆が、生涯続く一生となることだろう。
留意点(その1):「日本語」の壁
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上記のような方はさておき、ムラスタン文化をいったん棚上げして保留した上でワカスタン人に接することが可能な方なら問題はない。但しもう少々の留意点があるので以下追記する。
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最初の留意点は、先ず日本語だ。いくら言語の障壁がないからと言っても、留意点は有る。
それは、予備知識の必要な故事成語とか成句とか、歴史や故実などは使わずに話すことだ。何しろ文化的断絶は想像以上に大きい。
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従って、理解に予備知識が必要になるような表現は、予め全て除去しておく必要がある。
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そして、そのような表現抜きでの平明な日本語で話さなければならない。
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この点に話し手側の留意が必要なのだ。
留意点(その2):意志疎通の不均衡
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それから次の留意点は、異文化間の意思疎通における量的不均衡だ。
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もちろん、これまで述べてきたような点に注意すれば意思疎通の「内容」自体には、問題はなくなるはずだ。
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だが「量的不均衡」には念の為注意が必要である。このあとすぐの「補足」に示した図をご参照戴きたい。
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「補足」に示した図の通り、ムラスタン人は同じ文化の持ち主同士の対話が日常の殆どだ。
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これに対してワカスタン人は逆である。即ち、日常の殆どが異なる文化の持ち主との対話となる。
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早い話し、「うん、これは話が通じる相手だ」と思う対話と「こりゃ、なかなか話の通じない相手だなあ」と思う対話の比率が全然違う。
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言うまでもなく、ムラスタン人は「話が通じる相手」が多く、ワカスタン人にとっては話の通じない相手」が圧倒的に多いことになる。
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これが「量的不均衡」である。なぜこんな不均衡が生じるのか。
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同一文化内での対話なら、お互い共有している文化を前提にした対話が可能だ。一言で済む場合も多いことだろう。
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だが異なる文化の持ち主同士での対話ではそうはいかない。
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自集団内部だけで共有しているような知識や情報は削除した上で、平明に整理してから表現しなければならない。
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ひと手間余計にかかるのだ。
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だがムラスタン人側にはその必要は殆ど無い。
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一方でワカスタン人側は、毎日の生活で殆どいつもこの手間が必要だ。これが「量的不均衡」である。
無用な疎外感の防止
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これは頭の固さや柔らかさなど、相手の個人の資質ではない。
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異なる文化を持つ人口数の相対比の問題である。
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ムラスタン人が意図的に悪意でワカスタン人に対する包囲網を作っているわけでも、無視しているわけでもない。
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だが今ここではムラスタン人側がワカスタン人に対して、折角スポンサーシップを発揮しようとしているのだ。
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ワカスタン人には無用に委縮したり被害妄想に陥ったりして貰っては困る。
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この量的不均衡に関する、ワカスタン人側の理解と認識。
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そしてムラスタン人側のスポンサーシップ。
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異文化間での対話においてこの二つが共に揃うのなら、ワカスタン人もムラスタン人もそこから共に成果を得られることだろう。