「みかけが同じなら中身も同じ」か
-
これも善意が動機の発言なのかもしれない。
-
だがよく考えればこれもおかしい。
-
これは「人は見かけじゃわからない」を裏返ししているようなものなのだ。
つまり「みかけが自分と同じなら、中身も自分と同じはず」という思い込みの表れなのである。
-
どうして「みかけが自分と同じでも、考え方や価値観は全然違う人なのかもしれない」と思えないのだろうか。
社会的扶助の仕組み
-
なるほど、世の中には所謂「初心者マーク」以外にも、様々な事実告知や意思表示のための標識がある。
中には、何らかの身体的ハンディキャップを負っている人たちが、その事実告知や介助要望の意思表示をするために、特定のリボンやバッジなどを着用する場合もあるだろう。
-
誤解の無いようにここで念の為お断りしておくが、もちろんここではそのような意思表示の為の標識を、何か問題視しているわけでは一切ない。
事実の告知を受けて、着用者の置かれている状況を周囲が理解する。介助の要望を受けて積極的に手助けする。
-
これは社会的に実に有益な、素晴らしい方法だと思う。
問題の原因
-
だが、ワカスタン人についてはどうか。ちょっと考えてみてもらいたい。
-
どうしてワカスタン人は社会的な不利を強いられているのだろうか。何かの身体的ハンディキャップも負っているからだろうか。
-
もちろん違う。
ワカスタン人は、ムラスタン人の排他性と不寛容によって不利を強いられているだけなのだ。
その原因はムラスタン人の心の中にある。原因はそれしかない。
-
それなのに何故ワカスタン人がバッジ着用などの努力を強いられるのだろうか。
自分の頭の中身は自分で変える
-
ムラスタン人が
「みかけが自分と同じでも、ワカスタン人は考え方や価値観は全然違うのかもしれない」
と認識を変えれば済む話だ。必要なのはそれだけだ。
-
そのために、なんでワカスタン人がわざわざバッジ着用をしなければならないのか。
-
ムラスタン人の頭の中身は、ムラスタン人が自分で変えればよい。
自分の頭の中身を自分で変えることもできないのだろうか。
告知が必要なのはどちらか
-
どうしても社会的にバッジが必要だというのなら、逆にバッジ着用が必要なのはむしろムラスタン人の方なのではないのだろうか。
-
前記の通り、ワカスタン人は他人の異論や異説に対しても平静に傾聴できる気質の持ち主だ。
-
一方で、ムラスタン人は「ムラ社会」の「掟」や「しきたり」に合わない個人は、受け入れることはできない。
そのような「異分子」は集団の外部へ排除してしまう。つまり自己の許容範囲が狭く、特定の行動しか受け入れない。
許容限界と告知
-
であれば、ムラスタン人の許容限界が小さいことの方が、寧ろ告知の必要な事実なのではないだろうか。
-
「作業半径内立ち入り禁止」とか「桁下何々メートル」など、建設重機や道路交通などの物理的な許容限界を告知する標示は、皆さんもご覧になったことがあるだろう。それと同じことだ。
-
許容限界が小さいからこそ、標識で明示する必要がある。
-
してみると、バッジ着用が必要なのはむしろムラスタン人の方なのではないだろうか。