「ムラ社会」は多数派か
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日本には、これまで述べて来たような「ムラ社会」の「掟」や「しきたり」で満ち満ちている。
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だがそれは、「ムラスタン人」が多数派だから満ち満ちているだけである。正しいから満ち満ちているのではない。
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ではここで、もしムラスタン人が少数派になってしまったらどうなるのか。そんなことはあり得るのか。あり得るとしたら、それはどんな社会なのか。
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もちろんそんな社会は有る。それは国際社会である。
地球全体の中での「ムラ社会」
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総務省の統計によると、2015年の世界の人口は凡そ73億人、日本のそれは凡そ1.27億人である。
つまりは地球上の人口の60分の一程度でしかない。まるっきりの”one of them”なのだ。
(総務省統計局「世界の統計2015」http://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/0116.pdf#page=8)
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60人に一人の割合では、とてもじゃないが多数派などというわけにはいかない。世界に向かっては「私(日本)もまた、皆さんめいめいの中の一人です」としか言えない状況である。
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もちろん日本語自体の使用人口は、それなりに大きい。
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こちらはちょっとデータが古いが、母国語使用者としては、中国語・英語・スペイン語・ロシア語とヒンディー語に続いて、世界で第六番目クラスの使用者数があるのだという(鈴木孝夫「閉された言語・日本語の世界」新潮選書1975年p.111)。
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だが日本国外で日本語を公用語として使用している国家は一つもないし、況や日本語は国連の公用語にすらなっていない。
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これに対して、アラビア語のそれは約八千万である(前掲書p.112)であるのに拘わらず、既に国連公用語になっている(1973年)。
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文化の差異があっても習得可能な言語でも、こんな違いがあるのだ。つまり日本国外では、てんで相手にされていないのだ。
「クールジャパン」は「ムラ社会好き」か
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昨今の所謂「クールジャパン」キャンペーンではないが、海外に流通している日本製マンガやアニメなどは、もちろんある。輸出されている日本製品については、いわずもがなである。
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だがそこで対象になっているのは、あくまで「作品」若しくは「製品」である。
「場の『空気』を読め」だの「暗黙の裡に、言わなくても分かる筈だ」などという「ムラ社会」の「掟」を、社会模範として外国人たちが競って学ぼうとしているわけではないのだ。
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試みにこう説明してみたらどうだろうか。
「日本の会議では、参加者全員の情緒的な満足を実現することと、それを損なわないことが至上課題となります。これを『場の空気を読む』と言います。それができない所謂『空気の読めない』人は、『察しが足りない』『相手の立場に対して思いやりがない』などとして、排除されます」と。
「集団浅慮」はクールなのか
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いくら「クールジャパン」好きの外国人でも、これでは蒼ざめて黙り込むだけだろう。
「そんな方法で会議をしたところで、果たして合理的な意思決定ができるのだろうか」「所謂『集団浅慮』に陥る危険はないのか」と。
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従って、幾ら日本製品が海外市場で今後も売れようと、「クールジャパン」キャンペーンが奏功しようと、関係ない。
「製品の流通」と社会規範の伝播とは全く別の問題なのだ。幾ら待ったところで、ダメである。
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「クールジャパン」好きが嵩じた結果として、日本に倣った「ムラ社会」が国外に現れるわけではないのだ。
「内弁慶の文化」
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従って日本の「ムラ社会」文化は、きわめて「内向き」の文化、言ってみれば「内弁慶の文化」と言えるだろう。
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もちろん自分と同じ文化が国外に無いからと言って、別段寂しがることもひけ目に感じることも無い。
自分は自分の文化を持っていれば、それで必要かつ十分である。何の問題もない。
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では何が問題なのか。