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確かに日本は、明治維新後に近代化を進め、戦後には高度経済成長を遂げた。
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だがこれらの現実適応の成果は、本当に「ムラ社会」の功績なのだろうか。以下この問題を簡単に検討してみよう。
原理その①:「偶然性の原理」
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「ムラ社会」の現実適応が可能だった理由には、二つの原理がある。
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先ず最初に述べる原理を、ここでは仮に「偶然性の原理」と呼ぼう。一体どういうことなのか。
「超絶的心理能力」と「現実適応」
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どういう訳か「ムラ社会」の中でも、必ずこんな人が居る(出る)。
外面的には「ムラ社会」の「掟」に従いながらも、内心では現実直視の合理的思考を維持できている個人だ。
一種の「両刀使い」という訳だ。
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こういう人は現実を直視し、合理的に思考し、感情的反応は冷静に抑え、客観的判断によって現実に対処することができる。
今はこれを「現実適応」と呼ぼう。
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因みに当人がそのような外面と内心の違いを意識しているのか、それとも意識していないのかは、不明だ。
意識していない場合は、謂わば一種の「超絶的心理能力」ということになる。
自分の外面と内心での思考内容を、無意識に自己制御できるということなのだから。
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実に不思議な能力だが、結局これも「人は様々、十人十色」「三つ子の魂、百まで」という人間の本性の成せることなのだろう。
「ムラ社会」と合理性の両立
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いずれにしろ、ムラ社会の「掟」に従って昇進抜擢される中にも、こういう超絶的心理能力の持ち主が一部に含まれる。
そういう人も昇進抜擢されれば、徐々に自由裁量の範囲が組織内で拡大していく。
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やがてトップに就任すれば全面的に裁量権を掌握することになる。こういう人は、そこでやおら内心の合理的思考を発揮する。
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因みにこのような場合でも、合理的思考の持ち主はトップだけである。トップ以下の社員は全員ムラスタン人だ。
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つまり「ムラ社会」の組織は温存されている。だから逆に「トップの言うことは絶対だ」として一致従う。
合理的であろうとなかろうと、トップの下す指示に対しては、全員一致で邁進するのがムラスタン人だからだ。
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但しこの場合、トップの下す指示は合理的である。
従って組織全体としては、結果的に現実を直視した対応になるのだ。
「合理性」は「偶然」に機能する
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このようにして「ムラ社会」でも現実適応が実現する場合がある。
たとえ「ムラ社会」の中にあっても、これまで一部の日本企業に「名経営者」が登場してきたのは、実はこれなのだ。
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ただし当然ながら昇進や抜擢の基準は、「ムラ社会」の「掟」に依存する。
「ムラ社会」では、その「内向きの」「身内の論理」が遵守すべき至上の「掟」だ。
だから昇進や抜擢にあたっても、この「掟」にどれだけ従っているのかどうかが、銓衡基準となる。
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ということは、昇進抜擢された個人が現実適応の能力を維持しているのかどうかは、殆ど偶然次第である。
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たとえ外面的には「ムラ社会」の「掟」に従っていても、内心では現実適応の能力を維持している超絶的心理能力の人なのかもしれない。
或いは、そうではなく外面も内心も全て「内向きの」「身内の論理」で一本槍の人なのかもしれない。
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どちらであるのかは、銓衡の時点ではわからない。殆ど偶然である。本人の頭蓋骨の中身が、他人から透けて見えるわけではないからだ。
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従って、ここでは仮にこれを「偶然性の原理」と呼ぼう。
「偶然」は「破綻の母」
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因みに、もし「『内向きの』『身内の論理』で一本槍の人」が抜擢登用された場合、どうなるのか。
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当然 「ムラ社会」の「掟」に従って、「内向きの」「身内の論理」を維持することが最優先課題となる。現実適応の優先順位はあくまでその次だ。
現実適応が可能なのは、「ムラ社会」の「掟」に反しない範囲に限られる。
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現実適応と「ムラ社会」の「掟」が相反する場合は、「ムラ社会」の「掟」の方が優先する。
その結果、現実適応にしばしば失敗し、定期的にニュースを飾ることになる。
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皆さんは、企業の業績悪化や不祥事やその隠蔽や、或いは経営破綻や会計不祥事などのニュースを折々目になさることだろう。
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それらのニュースに必ずと言っていいほど登場するのが「内向きの企業風土」「身内の論理」などの決まり文句だ。
これらの決まり文句が絶えず登場する結果になるのは、上記の「偶然性の原理」の故である。
原理その②:「外圧の原理」
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前記の「偶然性の原理」と並び、「ムラ社会」の現実適応を可能にする原理がもう一つある。
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それは以下に述べる「外圧の原理」である。
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日本における「ムラ社会」の形成は「鎖国」が目的であったと述べた。その「鎖国」が奏功して外国からの影響を遮断できているうちは良い。
もっともこの「鎖国」中の期間だって、文化の輸入や貿易などは限定的に継続していたのだ。
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だからこの「鎖国」とは全くの全面的遮断だったとは言えない。分野を限定しての、謂わば「つまみ食い」の継続状態だったと言えよう。
外国社会の全面模倣
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だがこのような「鎖国」は、黒船にせよ何にせよ、しばしば外国勢力の到来によって破綻する。
そうすると、外国社会との全面的格差が露呈する。
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そりゃそうだ。「つまみ食い」にしたところで、国内に影響が及ばない程度と分野だけにそれを制限し続けていたのだから。
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その結果として、「鎖国」が破綻した時点では既に内外格差が全面的にまで拡大していたとしても不思議ではない。
早い話しが「もう手遅れ」の状態である。
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内外の格差は今や異論の余地なく明らかだ。これ以上「つまみ食い」の継続は不可能である。
つまり「鎖国」は不可能になる。他に選択の余地はない。
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このようにして「鎖国」継続の主張は沈黙を余儀なくされる。
「ムラ社会」の「同調圧力」は一時的に沈黙し、社会の現実直視と合理性の発揮、即ち現実適応が可能になる。
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一方、依然として「ムラ社会」の組織は温存されている。
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だが社会の全分野に於いて、各組織のトップだけは全員合理的思考の持ち主に入れ替わる。
トップの銓衡基準が「ムラ社会」の「掟」の遵守最優先から、現実適応最優先に入れ替わるからだ。
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そしてトップ以下に温存されている「ムラ社会」は、その「上命下達、絶対服従」の論理に従う。
それによって、トップの合理的思考を忠実かつ全面的に実行するための原動力として作用する。
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このようにして「ムラ社会」の現実適応が可能になる。
ただし外国社会の全面的模倣という形式によってのことだが(後述「補足です」の「注」参照)。
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今ここでは、これを「外圧の原理」と呼ぼう。
内外の全面的格差が必要
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従ってこの「外圧の原理」が作用するためには、内外の全面的格差が異論の余地なく露呈することが必要になる。
そうでなければ「総論賛成、各論反対」の異論を封殺できないからだ。
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もし格差が全面的ではなく部分的な格差でしかないのであれば、分野を限定しての模倣でもよいことになる。
つまり「つまみ食い」が依然として可能だということになる。そうなると「鎖国」継続の主張を封殺できない。
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このようにして可能になった現実適応が、先ず幕末明治の維新開国である。
黒船来航によって全面的内外格差が露呈した。「鎖国」の主張は沈黙し、「脱亜入欧」を黙認する。
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こうして現実適応が実現し、日本は一転して近代化へ邁進した。
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次いで第二次世界大戦の敗戦だ。再び日本の現実破綻が全面的に露呈した。
日本は一転して民主化と経済復興と、先進国に対するキャッチアップに邁進した。
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このような時期には、たとえ一時的にせよ「鎖国」の主張は沈黙を余儀なくされた。
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その結果どうなったのか。
明治維新後は
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。ちょんまげ頭を叩いてみれば因循姑息の音がする」
とからかわれた。
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戦後は
「これが、あちらのやり方です」「だから日本は『後進国』なのです」
が殺し文句として幅を利かせた訳だろう。
もちろん「あちら」とは欧米の所謂「先進国」とくにアメリカのことだ。
二つの原理が同時に作用すると
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このような「偶然性の原理」と「外圧の原理」が同時に作用すると、どうなるのか。飛躍的な現実適応が可能になるのだ。
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それまで「偶然」によってのみ可能だった合理的思考の持ち主のトップ就任は、いまや「外圧の原理」により社会の全分野で実現する。
一方でトップ以下の「ムラ社会」は温存され、「上命下達、絶対服従」の原動力として作用する。
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このようにして、先行文明に対する全面的キャッチアップも実現可能になる。
明治以降の近代化や戦後の経済復興と高度成長は、実はこれなのだ。
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合理的思考を発揮しようとするトップにとってはこうなる。
今や彼らは社会の全分野に於いてそれぞれの組織のトップだ。
既存の「ムラ社会」の序列上位者から出た異論に対しては、言下に「だから日本は『後進国』なのです」と断固拒否できる。
一方で、「上命下達、絶対服従」として組織内への「同調圧力」は無限大に発揮できる。
このようにして、合理性を極限まで実行可能になったのだ。
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このような飛躍的な現実適応は、言うまでもなく合理性の賜物だ。内外の全面的格差と言う現実を直視できた結果である。
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だがそれは、トップが合理性を発揮していただけのことである。トップ以下の「ムラ社会」の面々は、単に追従していただけだったのだ。
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「ムラ社会」そのものが現実直視できるような社会になったおかげではないのだ。
後続世代の理解
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「偶然性の原理」と「外圧の原理」の両方によって、戦後復興と高度成長を実現した人たち。今その世代は何処に居るのだろうか。
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もちろん引退か死去によって、もう全員が既に社会の現役ではない。何しろバブル崩壊からでさえ、二十年以上経っている。
所謂「石油ショック」によって日本がそれまでの高度成長経済から低成長経済に転換したのは、今や四十年以上の昔のことなのだ。
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従って、その世代の現実適応の経験は、もうとっくに社会から失われている。
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今の日本の現役世代は、その世代の更に後続世代か、更にもう一つか二つ後の世代だろう。
もうお祖父さんの時代は過ぎ去り、その子か孫か、或いは曾孫に当たる世代の時代なのだ。
錯覚はしていないか
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ではこの後続世代は、戦後復興と高度成長は一体何の功績だったと理解しているのだろうか。
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まさかそれが「ムラ社会」の功績だったのだと錯覚しているのでは、ちと宜しくない。
現実直視の合理性の産物だったことは理解も記憶も無いとなると、一層宜しくない。
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だが、バブル絶頂期までは日本企業礼賛や日本的経営礼賛ブームが盛んに唱えられた。
もしもこれらの自画自賛がその錯覚の表れだったということになると、甚だ宜しくないことだ。
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その後のバブル崩壊と金融危機により、日本はその現実破綻が再び露呈した。
以後の「失われた十年(若しくは二十年)」を経て、今や日本は新興国によるキャッチアップにも曝されているところなのだ。
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もし万一これが、錯覚と自画自賛の裡に現実適応が二の次になっていた結果なのだということでは、非常に宜しくないことだ。
「バブル崩壊以降の『失われた十年(若しくは二十年)』は、この等閑視の当然のツケであり、今や健闘しているのは『偶然性の原理』による僅かな例外のみである。」
まさかこんなことでは、大変に宜しくないことだろう。
新興国と「外圧の原理
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前記の通り、今の日本は新興国による逆キャッチアップ過程の渦中にある。
その対応策として、再び「外圧の原理」によって挽回することは可能なのか。
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結論を先に言えば、それは無理である。なぜか。
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新興国は先進国ではない。新興国と日本を比較した場合、社会の全分野で異論の余地なく内外格差が存在しているわけではない。
日本が既に後塵を拝している分野と、未だに同等な分野と、依然として先行している分野とが混在している。
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従って、模倣する分野を特定して取捨選択が必要になる。
しかしそうなると「総論賛成、各論反対」の異論を封殺できない。
前記の通り、「外圧の原理」発動の前提条件としては「異論の余地なく露呈した、内外の全面的格差」が必要だ。
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だがそれが存在しないのだ。
「外圧の原理」による挽回は、新興国が対象では不可能なのだ。
「ムラ社会」の自己弁護
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ここで現状打開の方法として、かえって「ムラ社会」への回帰を唱える主張も散見する。曰く「日本の古き良き伝統を守れ」とか「美しい国」とか。
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だが、もしもこれが「事実がどうであれ、過去を理想視して『昔は良かった』と賛美する考え方」だとすると、ちと問題だ。
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或いはこんな主張も登場するかもしれない。
「現在の新興国のキャッチアップが成功したのも、曾ての日本と同じように先進国を全面的に模倣したからだ。それが成功したということは、曾ての日本の戦略が今なお正しいことを意味する。日本の戦略は正しかったのだ。そして今なお正しい。ということは、やっぱり『ムラ社会』は正しいのだ」と。
このように論理を倒立させた自己弁護論の登場だって、有り得ないことではない。
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だがここまでお読みになった方には、上記のような復古主義的な心理が登場する理由も、自己弁護論の問題点も明らかだろう。
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なるほど、「ムラ社会」が過去に現実適応できたのは、広い意味では確かに「ムラ社会」の産物だ。
だがそれは前記の通り、「偶然の原理」が作用した結果か、若しくは「偶然の原理」とともに「外圧の原理」が同時に作用したからである。
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では「外圧の原理」抜きでは、どうなるのか。現実適応の可能性は、「偶然の原理」頼みになってしまう。
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ある社会が「現実適応できるのかどうかは偶然次第です」と言うのでは、その社会はどうなるのか。
現実破綻の危険を常時内包していることになる。現時点では「外圧の原理」の作用は恐らく望めないのだから。
だがそれが今の日本の「ムラ社会」だ。
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従って「『ムラ社会』は正しい」などとは、とても言えたものではない。
自信喪失の状況下で自信回復を図りたい動機は理解できるが、それでは現実直視ではない。自己満足か自画自賛にしかならない。
現状打開の方法としては、決して合理的ではないだろう。
結局「ムラ社会」は現実適応できたのか
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明治以降の近代化や戦後復興と高度成長など、過去の現実適応は果たして本当に「ムラ社会」の功績だと言えるのか。
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これまで縷々書いてきた通り、これには全然別な解釈も可能なのだ。
確かに明治維新後の近代化や戦後の高度経済成長などはあった。
だがそれは、温存された「ムラ社会」がトップの指示を忠実に実行した結果に過ぎない。
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「ムラ社会」が自発的に現実直視する合理的社会になったからではないのだ。
合理性を発揮していたのはトップだけである。前記の「偶然性の原理」や「外圧の原理」で書いた通りだ。
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もちろんこれらは強引に図式化した整理だ。その意味では仮説に過ぎない。
いずれにしろ諸説あることだろうから、前記の内容もあくまでも仮説である。
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だがそれを仮説だと言うのなら、「明治維新後の近代化や戦後の高度経済成長などは『ムラ社会』の功績だ」というのも、同じく仮説の一つに過ぎない。それではなぜ、第二次大戦の敗戦にしろ、金融危機の「第二の敗戦」にしろ、なぜ定期的に大規模な現実破綻を生じるのか。
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それらも「『ムラ社会』の功績」なのではないのだろうか。
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近代化や高度成長で発揮できたはずの合理性が、なぜ別の大規模破綻時には発揮できなかったのか。
そちらも説明できなければ、首尾一貫した説明にはならない。
「いいとこ取り」して、都合の良い結果だけ「つまみ食い」するのでは、単なる自画自賛である。
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それでは「ムラ社会」が自発的に合理性を発揮する社会であることの証拠にはならない。
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そして今後も「ムラ社会」が継続した場合に破綻を回避できることの根拠にもならないし、現実対応が出来ることの証拠にもならないのだ。
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遣唐使に始まって以来、明治の所謂「岩倉使節団(『米欧回覧実記』)」、明治以降の夥しい数の洋行留学生、戦後は各所から派遣された海外視察団、各企業が競って行った技術導入、等々。みな同じことの繰り返しだ。「日本」の歴史は外国社会の模倣の歴史なのだ。
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このような過程は、先行文明の周辺地域で社会形成する場合、よくあることだ。
社会形成の原理としては別に唯一でも固有の方法でもない代わり、優劣も上下もない。
更に言うなら、後発文明だからといって、文明の存在に優劣も上下もない。
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「文明とは、大陸内部の大河川流域で自生的に灌漑農業と穀作農耕が発生し、都市文明の自発的発生に至るもの。」
文明発生の過程とは、こんな風に何でもかんでも判で押したように「自発的」で「自生的」なのが上等だと決まっているわけではない。
文明発生に先行するのか後発だったのかは、単なる地理的条件の差異の問題だ。優劣や上下の問題ではない。
日本の歴史は「舶来上等」の歴史
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そもそも日本列島とは、もともとは住民すら全員渡来人なのだ(後述「注の注」参照)。
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因みに大陸側から見た場合、日本列島よりも以遠には何があるのか。島嶼が散在するだけで、あとは一面の大海原だけだ。
別の大陸や巨大陸島がある訳ではない。
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だから渡来文化も人間も、日本列島が渡来ルートの終点となる。更に日本列島外へ転出するような別のルートは無い。
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従って移民も文化も一貫して一方向だけ。全て外部から流入するだけだ。
これが日本列島住民の「常識」だったのだ。
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ご承知の通り、稲作技術も金属器も文字も仏教も、全て外来品である。
日本列島の歴史は、一貫して「舶来上等」の歴史なのだ。
【この補足の項、終わり】
元は皆んな「ヨソモノ」です
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もっとも一口に「渡来人」といったところで単一の集団ではない。経路も時期もばらばらに渡来した、ばらばらな集団の総称である。
遺伝形質的にも北方系、南方系の混合だ。
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その渡来ルートとは朝鮮半島経由か、サハリンや北海道経由なのか。それとも南西諸島の島伝いなのか、東シナ海の大海原を経由しているのか。
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ここでいう北方系とはアルタイ系だけか、それ以外も含むのか。
また南方系とは、マレー・ポリネシア系の南方島嶼文化の出身者か、それとも所謂「照葉樹林文化」地帯の出身者なのか。
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そもそも渡来した系統は北方系と南方系の二つだけなのか、それともそれ以上の多系統から成立しているのか。
いずれにしても諸説あることだろうから、ここではこれ以上立ち入らない。
「ムラ社会」の人為的形成
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いずれにしろ日本列島のもともとは、こんな状態だったのだ。
列島外部の各地からてんでばらばらに渡来した住民が、日本列島のあちこちにそれぞれ勝手に陣取ってめいめい集落を形成する。
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統一王権どころか多分共通言語もない。
こんな集落が列島各地に点在していて、モザイク状の雑居になっている。
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これが日本列島の謂わば「デフォルト」状態だったのだ。
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つまり日本における「ムラ社会」の「同質性」は、後から「鎖国」と言う特定目的のために人為的に形成された性格なのだ。
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自然発生的に形成された性格ではないから、その形成と維持のためには、住民に対する強制が必要になっているのだ。
既に書いた通り、同調圧力という負担と現実遊離という犠牲である。
【この補足の項、終わり】