価値のない人生とは
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だが、この「主観基準型」の人生モデルにだって、異議のある人もいることだろう。なぜか。
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人生を評価するということは、人生を「良い人生」「悪い人生」、または「満足な人生」や「悔いの残る人生」などに仕分けすることを意味する。
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だが中には、生涯不本意で満足の得られない人生を余儀なくされた人もいるかもしれない。
そういう人は「一瞬の光芒」すらもなかったことだろう。
だがその人の人生が何か無価値だったというのだろうか。
人生は皆、対等
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人生は本来無一物なのではないのだろうか。生まれた時は皆裸一貫だし、三途の川を渡るときは皆帷子一枚だ。
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死ぬ時は皆一緒なのだ。たとえ本人が悔いの残る人生だろうと満足していようと、それがその人の一生なのだ。
人生に良いも悪いもない。上下・貴賤・優劣・是非・善悪・可否の区別なんか、無い。みな対等なのだ。
評価と基準は必要か
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それをわざわざ仕分けすることに何の意味があるのだろうか。
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人生にはもともと意味なんて無い。無意味ですらない。それは誰でも同じことである。
人生に評価基準を設けること自体が無意味なのだ。
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もちろんグラフなんかも要らないし、そんなものはもともと無い。
意義とか意味とか言っても、それらは皆、後付けの理屈でしかないのだ。
「無基準型」モデル
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前述のような考え方に従えば、人生は単に始まりと終わりがあるだけである。
これをここでは仮に「無基準型」と呼ぶことにしよう。前掲図右の「無基準型の人生モデル」の通りだ。
人生とは、単に始まりと終わりの間に時間経過があるだけだ。そんな一直線の存在でしかない。
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そこには何の評価基準も存在しないし、そんなものはもともと不要である。
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誰に評価してもらうことも価値づけしてもらうことも、みな余計なお世話であるし、自己評価だって不要だ。
自分の人生に自分で値付けなどして、それで一体どうしようというのだろうか。
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そういう人たちには、もしかしたら「人生には何か価値が無ければならないもの」と言う先入観があるのではないのだろうか。
自縄自縛の価値観
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どんな価値観を信じていてもそれは個人の自由だ。
だが、ある価値を信じるということは、同時に無価値という裏面も生み出すということなのだ。
そしてその無価値から逃れて価値を目指そうとすることになる。
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それ自体は結構なことかもしれない。だがそれは、前記のような自作自演の先入観によって自縄自縛になっているということなのだ。
そんな思い込みによって自分で自分を追い込んで、一体どうしようというのだろうか。
相対化の目的
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実はここまで相対化を徹底しないと、本当にお互いの人生を対等視したことにならないのだ。
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こう書いてくると、中には「身も蓋もない索漠とした結論だ」とお感じになる方もいらっしゃるかもしれない。「一種の虚無主義ではないのか」と。
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だが、それでかえって救われた気持ちになる人が居る可能性はあるのだ。
次の四コママンガはそのイメージを示したものである。
達観と意欲
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ちなみにこの達観は、必ずしも無気力や意欲放棄を意味しない。
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このように達観している人の中にも、こう言う人もいるかもしれないからだ。
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「なるほど、人生は本来無一物だし、生まれた時は皆裸一貫、三途の川を渡るときは皆帷子一枚だ。確かにそうかもしれん。だが、だからと言ってそれがどうしたって言うんだ?」と嗤って受け流す人である。そのような人は、続けてこう言うことだろう。
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「『あの世に持っていけるわけではないのだから、カネを稼ぐなんてイヤだ』だって?しみったれた根性しているヤツだな、まったく」と、重ねて嗤ってから更に続けるだろう。
「生きている限り俺は働くよ。カネも稼ぐし財産も拵える。それが自分の死によって無に帰すからと言って、それがどうしたと言うんだ?」と。
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もしかしたら、こんな考え方で達観している人もいるのかもしれないのだ。
だとすると、虚無の達観は挫折でも放棄でも忌避でもないのだ。